手続き記憶というのがある。
自転車に乗るとか、歯を磨くとか、字を書くとか。
こうしたことを、普段、僕たちは、何も考えずにやることができる。
無意識のうちに。何か他のことを考えながら、することができる。
はじめからそれができたわけではない。
自転車にはじめて乗る子どもは、ペダルを足で回すのも、ハンドルでバランスをとるのも、ものすごく努力を要する。
努力しても、なかなかうまく、自転車を操作できない。
それが、練習を繰り返すうちに、徐々に出来るようになる。
スムーズにペダルを回せるようになる。
補助輪なしでもバランスを取れるようになる。
下り坂も、カーブも、自在に進んでいけるようになる。
そうすれば、もう、何も考えずとも、口笛を吹きながらでも、自転車の運転ができる。
自転車の操縦法が、手続きとして、脳裏に刻み込まれたのだ。
こうした「手続き記憶化」が、他のことにも成り立つのではないか。
僕はふと、そう思ったのだ。
例えば、文章を書くこと。
はじめは、非常な努力を要する。
何を書こうか。どう書けば伝わる文章になるか。構成をどうするか。
どこで改行するか。段落を分けるか。です・ますで書くか、だ・であるで書くか。
あらゆることを、一つ一つ考えなければ、文章をひとつ書き上げることができない。
ブログ記事をひとつ書くだけでも、あるいは業務メール一通書くだけでも、ぐったりと疲れてしまうだろう。
しかしながら、何度も、何度も書いているうちに。
自転車を軽快に乗りこなすように。
スイスイと、書けるようになるのではないだろうか。
非常な努力を要することなく。
そうした境地へ、到達することを、期待して。
文章を書いてみたいと、思うのだ。